実家の猫のマガリが死んだ。
そろそろだろうと母からの連絡を受けて帰省した翌日のことだった。享年17歳。
マガリが生きた年月だけ泣いてやろうかと思ったが、人間の涙腺には限界があることがよくわかった。
庭に埋めようという母と、いや森にしようとゆずらない私でしばらく揉めた。
森にするのは命の冒涜という年寄り定番の意見をなだめて、どうにか私が亡骸を引きとることに決まった。念のため父にもその旨を伝えると「そうか」の一言。クロスワードパズルから視線を外しもしないその様子に母はまた機嫌が悪くなる。私は話を蒸し返されないうちにせっせと準備を始めることにした。
亡骸、これはにおいが漏れるとまずいので可哀想だが密封パックで2重に包み、大量の保冷剤といっしょにクーラーボックスに詰めた。翌朝までは保つだろう。本当は冷凍して持ち帰りたかったが、マガリの亡骸を家の冷蔵庫に入れることを母が頑なにイヤがったので諦めた。次に肝心の森、ネットで調べたいくつかに電話をかけると予約はすぐに取れた。料金については母と揉めた以上相談できるわけもない。すべて自腹で入金した。その他細かい手続きも済ませ、あとは現地に行って埋葬するだけである。
その日は昔自室だった部屋で、母が撮りためていたマガリのアルバムをめくりながら一晩過ごした。
翌日、腐敗が心配だったので自宅には寄らず直接森へと向かった。森の入り口の小さな事務所で受付を済ませて、埋葬用のもろもろを受け取る。軍手やハサミといった作業用グッズの入った小袋、500mlペットボトルの水、空種、注意事項が書かれた用紙、埋めるポイントに赤ペンで丸が書き込まれた簡単な地図。空種の大小は事前の予約どおり、食いしん坊だったマガリのことだからきっと大きくなりたかろうと考えて大を選んだ。その場で変える人も多いんですよと受付の女性が言っていたのもうなずける大きさで、私のあたまぐらい大きい。
付き添いのスタッフと事務所を出ると、子供連れの家族とすれ違った。談笑していた夫婦が、空種を抱えた喪服のスタッフを見てそっと頭を下げてきた。ここは普通の墓地とは違う。自然公園として整備された区画ではピクニックもできる。せっかくの休日に気を使わせてしまったことが申し訳なくて、私はすこし足早に事務所をはなれた。
様々な柄の木々を抜けてたどり着いた指定の場所は、ロープで地面が四角に区切られており、その中央に円形に掘られた深めの窪みがあった。ここに埋めるということだろう。
私はクーラーボックスを砂利道に下ろしてさっそく埋葬の準備を始めた。といっても作業はまったく簡単で、細かいところを省けば「空種に遺体を入れて専用の土で埋める」だけである。なんの儀式性もない。家の庭に埋めるのと大差ないとは聞いていたが本当にそのとおりだった。マガリの亡骸を種に詰めるところだけが不安だったが、保冷剤を大量に入れていたおかげでほとんど臭いもなかった。
背中に当たる日差しにじっとり汗をかきながら、スタッフが埋めてくれた真っ白な土にペットボトルの水をドボドボとかけ、それで埋葬は終わり。育ってみるまで”樹”の大きさや形状が分からないため、ネームプレートは樹の成長後に立てるとのこと。後日写真をお送りすることもできますと言われたが、それはそれとして再訪もすることにした。たとえ姿が変わっても、その背はこの手で撫でてあげるのが飼い主の務めだろう。
近くの水場で手を洗い、ジーンズの土を払ったあと、スタッフと一緒にしばし黙礼。
保冷剤のせいでちっとも軽くならないクーラーボックスを担ぎ直して私は森を出た。
”樹”は通常3日~1週間程度で大樹と呼べるほどまで育つ。
いったん育ち終わった”樹”はその後一般的な樹木と同様のペースで成長し、一般的な樹木と同様にやがて枯れていく。
”樹”の表皮の柄や幹の形状はおおむね生前の動物の特徴を引き継ぐそうで、ぶち柄だった猫はぶち柄の樹に、大柄だった猫の樹は太く背の高い樹になる傾向にある。見たことはないが極稀には長毛種の”樹”なんかも育つそうだ。
動物の亡骸を”種”に”樹”として育てなおす「樹受葬」がペットの葬儀として一般的になる前は、生命をいたずらに弄ぶ冒涜的な弔いだとして多くの批判がなされてきた。それがいまこうして当たり前の葬儀として選択できるのは、そのあとの世の中で多くの動物飼いがその小さな家族の命をなにかの形で繋いでいきたいと願ってきたからだ。
動物の遺体が土中で分解されて微生物たちの糧となる命の連鎖と、ペットから樹というかたちで命のバトンを直接わたすやりかたは、命の「繋ぎ方」 が違うだけで後者ばかりが批判されることには納得がいかない。
失われた命を自然の中に溶かし込むか、生きた墓標として大地に突き立てるか。私は後者を選んだ。私達の世代の多くと同じように。
翌週の金曜日、仕事から帰ってヘトヘトになりながら郵便受けをあさると森から郵便物が届いていた。
手早く入浴したあとビールを用意し、深呼吸して封筒を開けた。中には写真とUSBメモリが入っていた。写真には夏の日差しが降る森の中、「マガリの樹」と書かれたネームプレートの脇に真っ白で太い樹が生えているのが写っている。ペンキで塗ったのかと思うぐらい白いが、よく見るとわずかにポツポツと黒い模様も散っている。
マガリの模様だ。
かつて実家で数え切れないほど撫でた猫の背中のやわらかさが脳裏にひらめいて、涙がこぼれた。あのときの手のひらの感触を少しでも思い出したくてビールを置く。写真から目が離せない。この樹はけっしてあの感触を持たないだろうけれど、それでもいますぐ撫でてあげたくて、居ても立っても居られない。
・・・ようやく落ち着いた。ビールはぬるくなりはじめていた。
封筒の残りはUSBメモリとその説明書き。樹の成長過程をタイムラプスで撮影し、15分に圧縮した動画が入っているとのこと。
成長過程の動画を渡すサービスはいまはどこでもやっている。たちの悪い業者が以前、実際は埋葬せず塗装したただの木を埋め直していたということが発覚し大問題になったからだ。樹受葬の樹は専用の生体素材と濃縮土壌が必要なため、すでに育った樹木を別に調達したほうが安上がりなのである。そういう替え玉はしていないということの証明としてどこの業者も樹の成長動画を森の利用者に送るようになった。
さっそくノートパソコンに取り込んで動画を再生した。「マガリの樹が育つまで」と書かれた適当なタイトルがあらわれて苦笑する。結婚式の引出物を思わせた。
樹は夜に育つ。1晩目と右上に書かれた画面に、暗視スコープのような緑の画面で森が広がっている。樹はそのおどろくべき成長速度ですぐに地面から芽を出した。小さな体をぐねぐねとしつつ、葉が両手のように広がっていった。新たな葉を生やしつつ縦へと伸びる。色が白いせいかうまくライティングでもしてくれているのか、暗視の森のなかで樹の姿はよく見ることができた。
だから、画面の中の小さな姿でも生えた樹の先が猫の顔になっていく様子も見て取れた。
天を目指して太く長く伸びていくマガリ。2晩目にはもう先端が画面に収まりきらず見えなくなってしまった。
そうして4晩目で動画は終わり、写真と同じ姿の樹が映し出されていた。この翌日にでもネームプレートをスタッフが刺してくれたのだろう。
私は2本目のビールを持ってきて、もういちど動画を頭から再生した。タイトル画面、緑の森、地面を割る芽、広がる葉、うねりながら伸びる茎、マガリの顔、マガリの顔、マガリの顔、マガリのk
見えなくなった。動画をまた最初から再生する。マガリの顔で一時停止。画面の中ではまだ小さくて目をこらさないといけないが、いくらでもこらしてしまう。ビールに口をつける。
そんな風に何度も巻きもどしてはマガリの顔を見る作業を繰り返していたら、違和感を覚えはじめた。写っている樹の顔はマガリには間違いないのだが、なにか引っかかる。何かを思い出しそうで思い出せない。
表情の細部まで見えないことがもどかしく、できるだけ顔の部分がよく見える大きさになってから動画を止めて、スクリーンキャプチャで画像をとり拡大した。
拡大したら分かった。
鳴いているのだ。
マガリが口と目を開いて、鳴いている表情をしている。ただ口を開いているだけではない。これは鳴いているときの顔だ。正面ではなく空を見上げている顔を横から見るため分かりづらいけれど、見間違えるはずがない。動画に音は入っていないし、そもそも樹に声帯があるはずもないが、いつもの甘えた鳴き声が記憶の中で響く。
マガリは鳴いていた。動画を巻き戻しても、先送りにしても、ずっと鳴いていた。タイムラプスでようやく分かるくらい、ゆっくりと口を閉じて開いて、顔と認識できるところからすでに、画面から消えて見えなくなるまで、ずっと鳴き続けていた。
一時停止した動画を見つめて思う。
マガリは何に鳴いていたのだろう。空腹? 寂しい? 痛い? 生前の頃だってなにに鳴いているのか分からないことばかりだった。今でもきっと人間には分からないことで鳴いているのかもしれない。あるいはこれは、しょせん樹がそう形作っているだけの模様で、鳴いていると勝手に解釈すること自体が馬鹿げているのかも知れない。そう思えば悩むことはないが、あれを、あの顔を見て、「これはただの樹の模様だ」なんて思える飼い主がいるわけがない。
マガリは画面から見えなくなるまで鳴いていた。ということは、見えなくなったあとも鳴き続けていた可能性が高い。
それどころか、今もなお鳴いている可能性だってあるということに私は気づいた。
そしてさらに気づく。
鳴いているのは、果たしてマガリだけだろうか。
あの森で弔われたすべての動物たちが、今なお、音もなく鳴いているのではないか。
ベッドに入り、写真を胸に抱いて、明日森に行くことばかり考えている。動物たちの透明な鳴き声に満ちているかも知れないあの森へ。
それはとてもおぞましいものかもしれないし、耳を塞ぎたくなるほど騒がしいかも知れないが、
私はその声を聴きたくて、聴きたくて、眠れずにいる。