この匂いを辿れば

 私には”家の匂い”が分かるという特技があった。
 小さい頃の話だ。

 人の家には、その家独特の匂いというものがある。
 家族が使っている化粧品やコロン、家財や柱の木の香り、ペットの体臭、普段食べているものや調味料のわずかな匂い、洗剤の香料、たばこ、靴、トイレ、ホコリ、汗……閉鎖空間内で数え切れない要素が混ざり合わさった、”家の匂い”としか呼べない香り。玄関を開ければすぐに分かる。遊び友達はみないちいち口にはしないが、それぞれの家の匂いを感じ取っていたと思う。
 私は”その家の匂い”を、家に入るはるか前から感じ取ることができた。
 例えばある日の学校の帰り道に散歩中の年寄りとすれ違う。すれ違いざまにすっとその年寄りの匂いをかぐ。あからさまに近寄ると避けられてしまうこともあるから、ほんのかすかに漂ってくる匂いを記憶しておく。
 そして今度は、あたりの匂いをかぐ。さまざまな匂いが混じり合う中で、やがてその年寄りと同じ匂いを嗅ぎ分けると、私はランドセルの肩ベルトをしっかりと掴んで一気に駆けだす。そしてある一軒家にたどり着くと、そこでしばらく暇をつぶす。歩みの遅い年寄りが散歩から帰ってくればゲームクリアだ。
 出会うすべての人で試したわけではもちろんないが、試した限りで匂いの元を間違えたことは一度もない。友人にこの特技を披露して「犬じゃん」と笑われてからできるだけ秘密にしたが、将来はこの技術で探偵になると心に決めていた。まあ、探偵にはならなかったけれど。


 当時私が住んでいた地域は割と貧しい家庭が多かったようで、同じクラスのMくんもそんな家の一人だった。履き潰したスニーカー、着ている服にはたいてい褪せた染みがあり、髪もボサボサ。クラスメイトからは身なりの汚さでからかわれるたびに嫌そうに笑っていた。
 Mくんはよく学校も休んだ。サボっていたのか家庭の事情だったのかは分からない。そして、比較的家が近い私は学校から渡される紙の類をよくMくんの家に持って行かされていた。おかげでMくんの家の匂いは他のどの家よりも強く覚えている。普段のMくんへの印象が偏見となって、「これが貧しさの匂いか」などとひどい感想を抱いたものだった。

 その日も学校の書類と、前日に提出した宿題のノートをMくんの家に届けてほしいと言い渡された。面倒ではあるが、家に帰るついでとして大した寄り道でもない。とっととMくんの家に行ってすぐに遊びに行こうと私はY団地へと急いだ。

 Mくんの家はY団地の412号室である。そこは収入が著しく低かったり、シングルマザーであったり、病気や怪我で働けないなど、家計になんらかの事情がある人が優先的に入居できる格安の公営住宅だ。当時の私はそんな事情などもちろん知らないから、「学校の近くでいちばん汚い団地」ぐらいに思っていた。
 狭くて鉄臭いエレベーターに乗り、真っ黒な楕円形になったガムがあちこちにこびりついた通路をまっすぐ行くと、突き当りがMくんの家だ。
 ドアベルはいつもどおり鳴らないだろうから、ドアをどんどんと叩いた。
 ちなみにこれはMくんの家を訪れるときのノウハウだが、ノックのあとはすぐにドアから離れたほうが良い。なぜなら――

「だれ !?」

 Mくんのお母さんがすぐに出てくるからだ。
 玄関で常に待機しているのかと思うほどの速さでドアを開け、ぎょろりとした目でこちらを睨んでくる。いや、ただ眼光がするどすぎるだけなのだが、Mくんのお母さんのことを知らない人はまず睨まれたと感じてたじろくだろう。私も慣れないうちは怖かった。
「これ、学校からです」
 Mくんのお母さんは私の顔を見て笑顔を見せた。笑顔だが目の大きさがほとんど変わらない。
「あ、いつもありがとうね」
 話せば普通の大人である。Mくん本人と違い身なりが汚いという感じはなく、髪も整えられていて不潔とは思わない。当時の自分は気づかなかったが、思い返せば化粧もしていたのではないか。
 ただ、その背後からは芳香剤などの「取り繕う」匂いが全くせず、彼女のしっかりした身なりとのわずかなギャップを不思議に思うこともたまにあった。しっかりした家にはしっかりした家なりの匂いというものがある。
「それじゃ」
 余計な話をせずすぐに家に引っ込む彼女もいつものことだ。大人の世間話を面白いと思う子供は少ない。私には彼女の素っ気なさがありがたかった。大人がみんなこれだったら良いのにと思っていた。
 私はようやく遊びに行けるとすぐに団地を出た。


 Mくんのノートを渡し忘れていたことに気づいたのは自宅の目前だった。遊びたさですっかり忘れていたのだ。
 距離が近いとはいえもう一度Mくんの家に戻るのは億劫である。
 ランドセルからノートを取り出してしばらく考えた。これはお知らせの書類ではない。明日学校でMくんに渡せばそれで済むのではないか。いや、今日の宿題はこのノートを使う教科があったっけ・・・
 そのままなんとなく、すっとノートの匂いを嗅いだ。紙の匂いと、Mくんの匂いと、Mくんの家の匂いと。

 よくわからない匂いがした。

 宿題を届けに戻るかどうかで悩んでいて、しばらく気づかなかった。
 あまり嗅いだことがない匂いだった。水というか、草というか、自然のもの。少なくとも誰かの家の匂いとは思えなかった。Mくんの家の匂いを思い出してみたが全く違う。ノートに土や水で汚れているところもない。
 あたりの匂いを嗅いでみる。普段よりもずっと集中して、わずかな匂いの差を嗅ぎ分けようとする。あの家の匂い、この家の匂い・・・ごく普通の雑多な匂いの中にかすかに、ノートと同じよくわからない匂いがあった。Mくんの家の方角とはまったく違う、あさっての方向である。
 自分は家の匂い専門の探偵になると思っていた。家の匂い以外でこの能力を発揮することはなかったからだ。だが今、自分は明らかに家以外の匂いを掴んでいる。探偵を志すものとして、これほど興味を惹かれる状況はない。
 家に帰る時間ももったいない。私はランドセルを背負ったまま匂いを辿ることにした。匂いはかすかで、走っては呼吸が乱れて分からなくなるかもしれない。慎重に、何度も嗅ぎ直しながら、やがて私は普段暮らしている住宅街を抜けていった。


 夕暮れの終わりが見え始めた頃、へとへとになりながら私がたどり着いたのは、どことも知れない雑木林の入り口だった。
 奥に続く道は暗く、どこまで続いているのかは見通せない。周囲には家もなく畑ばかり、気の早い鈴虫の音や風の音しか聞こえない。
 そろそろ帰るべきとは分かっていたが、執念深く辿っていった匂いがそこで、強く、濃く、自分を誘っていると感じた。今この奥に行かなければ、この匂いは永遠に失われてしまうと根拠もなく感じた。
 学校帰りに懐中電灯を持っているはずもなく。
 夜になってしまえば出てこられなくなると、怯えながら早足に木々の隙間をくぐって行った。

 道らしい道はすぐに途絶え、匂いだけを頼りに草木をかき分けながら奥へ、奥へと入っていく。顔にあたる小枝が肌をひっかき、ジーンズにはくっつき虫が鱗のように張り付いた。心細さからか、無意識に手頃な枝を折って足元の草を払い払い歩く。夕日は静かに失われていく。
 雑木林とは思えない木々を薄闇の中で必死に歩きつづけ、ついに開けた場所にでた。

 そこが、まさに”匂い”の元であったのだ。あまりの匂いの濃さに吐き気を催すほどだ。
 大きな沼であった。

 蓮の葉のようなものが水面に浮かんでいる。枝のない細い木が、助けを求める人の腕のように何本も生えている。気づけば足元がぬかるんでいる。暗すぎてよくわからなかったが、人工的に作った池などとは思えなかった。
 荒い息で沼をしばらくぼんやりと見つめた。鼻を摘んでいても分かるこの匂い。
 これだ。この匂いだ……。
 この、匂い……

 耳元で飛ぶ羽虫の不快さにはっと思い出した。この匂いが、Mくんのノートからしたことを。
 手探りでランドセルからノートを取り出して鼻にぐっと近づけると、沼からの強烈な匂いとは別に、たしかにノートからも同じ匂いがする。ほんのかすかではあるが、絶対に同じだと確信できる。
 ノートの匂いとはつまり、Mくんの残り香でもある。
 あたりはもはや夜と言ってもいいほど暗い。沼地で開けた景色を振り返れば、雑木林の闇が広がっている。
(Mくんは、どうしてこんなところに?・・・いや・・・)

 匂いを辿って人の家を探して、その人よりも先にたどり着くことを「ゲームクリア」と考えていた。
 ”その人よりも先にたどり着く。”

 背後の闇からMくんが突然現れるのではないかと、寒気に襲われた。
 好奇心で黙らせていた恐怖がついに溢れて、止められなかった。
 私は必死に沼を離れ、雑木林を抜け、家へと走りに走った。Mくんに後ろから抱きつかれる妄想が振りほどけなかった。

 家についたあとのことは正直あまり覚えていない。
 両親の説教と、自宅の匂いが本当に優しかったことだけを覚えている。


 Mくんはその後学校に来ず、3ヶ月後にその沼で溺死体となって発見された。遺体の損傷が激しく、滑落などの事故があったのか、なにかの事件に巻き込まれたのかは結局分からなかった。

 私はそれ以来人の匂いを嗅ぐことが恐ろしく、探偵ごっこを一切やめたのだった。大人になって、気づけば家の匂いを辿る能力も失った。失ったとわかったときには本当に安堵した。

 能力を失う直前、枕からMくんの家の匂いがした気がして以来、私は帰省していない。









人面瘡の症例報告

[人面瘡の巨大直腸異物に関わる症例報告]
XXXX総合病院 外科
〇〇 医師


患者:68 歳、男性。
主訴:左膝痛
既往歴:高血圧、脂質異常症、人面瘡(右膝)

現病歴:
 右膝に顕出している人面瘡からの要求に従い、人面瘡の肛門瘡(図 1)を左膝関節部に召喚後、自慰目的で直径約50mmのシリコン製玩具を挿入した。
 普段よりも直径の大きな玩具挿入であったため抜去不能となり、左膝の圧痛を訴え救急搬送された。

来院時現症:
 血圧 163/92mmHg,体温36.9℃
 肛門瘡外部からシリコン製玩具は目視で確認できず。
 単純レントゲン検査にて左膝部に肛門瘡の直腸およびシリコン製玩具の一部を認めたが、患者左膝内部と肛門瘡直腸部位の境界から玩具先端が消失しており(図 2a)、異物挿入状況は部分的確認にとどまった。

手術所見:
 左膝麻酔下で用手的な引き出しを行おうとしたが、人間の肛門と比べ肛門瘡は直径が小さく指で玩具を挟み込むことが困難であった。次に膝外部から玩具を押さえて固定し、ミオームボーラーを穿刺し牽引を試みたが前述の玩具消失部分が患者の膝内部と癒着しており(図 2b)、膝部顕出状況での物理的抜去はできないと判断した。
 医学的説明を用いた十分な説得の後、左膝の肛門瘡を患者肛門に再顕出させ、患者と人面瘡の直腸を重ね合わせることで玩具消失部位の癒着を解消、通常の経肛門的アプローチにて玩具の摘出を行うことができた。直腸への異物挿入の危険性について説明したうえで、患者は当日中に退院。